三日坊主ならず
毎日更新しようと決めたのは1週間前のこと。
気づくと2日目の更新を最後に、更新が途絶えていた。
三日坊主もびっくりの二日坊主。
三日坊主ってなんで三日坊主って言うんだろう。
坊主にしても三日で毛が生えてくるからかなあと思って、調べてみると全然違いました。
お坊さんになるべく出家しても、厳しさに耐えられず三日で帰ってくると言う根性のなさを表すところから来ているそうです。
坊さんの修行よりもブログの更新の方が大変なのかーー
と言うわけではなく、やりたいことや、やるべきことがたくさんあって、それをしているうちに、1日が終わってしまうと言うのが現実。
意外と24時間ってあっという間に過ぎていく。
そして、いろいろとやっているうちに、なぜだか書きたいことが増えていく。
書き記すということ
書きたいことが増えていく、と言う感覚は少々不思議なものです。
私は毎日、朝の日記、夜には2冊の日記を書いています。
ライフログも忘れずつけているので、朝晩で書く文章量はなかなかのもの。
それだけ言葉にする機会を作っているので、言葉にしたいことはしているものだと思っていました。
けれど、自分の内側で言葉にすることと、外側で言葉にするのとでは、脳にとっても、心にとってもちょっぴり違うみたい。
日記は自分しか読まないけれども、ブログは誰かが読むかもしれない。
誰にも話さずに生きていると、自分の人生が透明になっていってしまう気がする。
今日の私の発見が、日常の中に溶けて消えてしまう。
誰かに聞いてもらいたい。
読み手がいなくても、自分以外の人の目に届くところで、自分の気づきや発見や喜びを、記しておきたい、というのは、なぜなのでしょうか。
思考の飽和点のその先に
文章を書くと言うことは尊いことだと思うようになって、はや10年ちょい。
そうは言っても、いつかの夏休みの読書感想文も、大学の講義のレポートも、行き詰まっては、よく「う〜ん」と唸っておりました。
文章を書いていると、言葉が出てこなくなる瞬間、スラスラと文字を書けなくなる瞬間ってあるんですよね。
思考の飽和点と言いますか。
とりあえず言いたいことは言い切って、次どんな話をしたらいいのかなって言う状態。
大体その先にちょっとした気づきや発見が待っているんですよね。
その気づきや発見というものは、人生を豊かにしてくれる。
日常に彩りを与えてくれる、とてもすてきな要素だと思うんです。
おしゃべりがしたい
気づきというものは、誰かと話していたりすると、ふとやってくることがあります。
そういう時って、誰かにアドバイスされたから気づけたというよりは、「うん、うん」と聞いてもらっているうちに、自分でも分からなかったことが急にクリアになるんです。
だから人と話すのは好きだし、もちろん話を聞くことも好き。
できれば毎日おしゃべりがしたい。
近くになんでも話せる友達がいたらいいんですけど、あいにくみんな、社会人というものになってしまってから、疎遠になってしまいました。
共通の趣味や悩みもない上に、生活のレベルやステップが違うとなると、何を話すんだろうとなってしまう。
過去の話を懐かしがれるのはたまにだから。
友達は変わらずずっと友達だと言いたいところだけれど、今のあの子のことは何も知らない、という事実に少し寂しくなります。
どうして簡単に連絡が取れなくなってしまうんだろう。
たまにインスタのストーリーをきっかけにDMやLINEのやりとりをしても、私が送ってから1日返信が来ないのを見ると、とても悲しくなります。
ああ、それぞれ住んでいる世界があるんだなって、割り切ろうとすると同時に、オンラインという24時間繋がれるような媒体を持っていても、世界線が違うと会えないどころか、連絡も取れないのだという現実に少々参ってしまいます。
ああ、放課後みたいなものが愛おしい。
あの、なんの制約もなくただ集まって話しているだけの時間。
カフェも、コーヒーも、ご飯も。なんの口実もいらない時間。
今も、放課後ならいいのに。